Book Club

Reading Diary
2005年11月11日(Fri)▲ページの先頭へ
イーサン・フローム/イーディス・ウォートン

『イーサン・フローム』/イーディス・ウォートン (著), Edith Wharton (原著), 宮本 陽吉 (翻訳), 貝瀬 知花 (翻訳), 小沢 円 (翻訳)
単行本: 221 p ; サイズ(cm): 19 x 13
出版社: 荒地出版社 ; ISBN: 4752100932 ; (1995/09)

※画像は原書 『Ethan Frome』

内容(「MARC」データベースより)
「衝突事故」のせいで額に赤い傷を残し、鎖にひかれるように足を引きずって歩く農夫、イーサン・フローム。ニューイングランドを舞台に一人の男の生き方を描く。愛憎の果て生きることの意味を問う。


『イーサン・フローム』を読み終えたのだが、なるほど、物語としては考えさせられる話だなあと思うものの、やっぱり日本語が・・・と思う。そういう意味では、非常に残念。

それにしても、やりきれない話だと思う。病気がちの年上の妻に、若く溌剌とした親戚の娘。そこで、何が起こるかは推測できるだろう。若い娘に心を奪われるイーサンの気持ちもわからないではないが、妻の嫉妬も痛いほどわかる。

これがお金持ちの話なら、お金で解決もできないわけではないだろうが、なにしろイーサン・フロームは、病気に祟られててでもいるかのように、両親から妻まで、ずぅーっと病人だらけの生活をしてきており、お金などたまるはずもない。逃げることもできないのだ。

最後に若い娘との心中を図るイーサンだが、それさえも運命に拒否され、死に切れず、死ぬまで3人で暮らす運命となるのだ。しかも、娘も寝たきりで動けなくなるし、イーサンも、一生足を引きずるようになる。これでもかというような運命のむごい仕打ちである。それでも生き続けなければならない人生とは、一体どんな意味があるのだろう?

こういう話って、読んでいるだけでも辛い。でも、こういう不幸で不幸でしょうがない、 <不幸なできごと> を地で行く、救われない人っているんだろうなあと。死んでしまうよりも、生きていることのほうが、数倍辛い人生だ。


2005年07月19日(Tue)▲ページの先頭へ
エデンの東(上・下)/ジョン・スタインベック

『エデンの東(上)』/ジョン・スタインベック (著), 土屋 政雄 (訳)
単行本: 397 p ; サイズ(cm): 20
出版社: 早川書房 ; ISBN: 4152086327 ; 新訳版 版 上 巻 (2005/04/21)

内容(「BOOK」データベースより)
20世紀アメリカのもっとも偉大な語り部が、冷徹な筆致と装だなスケールで描く父と子、家族、そして人間の自由の物語。

時は19世紀。厳しくも雄大な自然に囲まれた開拓地カリフォルニア州サリーナスは、限りない希望を胸に抱く人々で溢れていた。その一人、厳格な父の命で心ならずも参加した戦争に疲弊した男アダム・トラスク。美女キャシーとの結婚にみずからの幸せを見出したアダムは、妻と生まれてくる子どものために永遠の楽園を建設しようと決意し、農夫にして鍛冶屋、天才発明家でもあるサミュエル・ハミルトンに手助けを求めた。

だが、キャシーを一目見たサミュエルは、彼女の冷たい眼差しと奇怪な振る舞いに気づき、その得体のしれない邪悪の影に身震いするのだった──

アメリカ文学史上に燦然と輝くノーベル賞作家畢生の大作が新訳で登場。


『エデンの東(下)』/ジョン・スタインベック (著), 土屋 政雄 (訳)
単行本: 493 p ; サイズ(cm): 20
出版社: 早川書房 ; ISBN: 4152086335 ; 新訳版 版 下 巻 (2005/04/21)

内容(「BOOK」データベースより)
父と子の葛藤はなぜ繰り返されるのか?人間の自由な心とは何か?瑞々しい新訳で蘇るスタインベック文学の集大成。

妻キャシーが家を去り、失意の深い底に沈んだアダム。懸命な中国人の召使リーによってトラスク家の生活は守られていたが、アダムの心は楽園への夢から遠く離れ、生まれてきた双子さえ目に入らないまま長い年月が過ぎた。だがやがて、自らの死期を悟ったサミュエルは、凍てついた友人の心を絶望から救うためキャシーの邪悪な真実を明かしてしまう・・・。

一方、双子は父親の愛なく思春期を迎えた。愛らしく純真なアロンとひねくれ者のキャル。町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる──


『エデンの東』を読み終えた。上下に分冊されている本の常で、下巻は一気に読み終えた。前にも書いたが、さすがノーベル賞作家だ。とはいえ、ノーベル賞作家が、どれもいいと思うとは限らない。というより、さすが!と思ったのは、おそらくスタインベックが初めてだと思う。小説として完璧だと思った。

この本を読みながら、何度涙したことか。この作品には、人間が経験するほとんどの感情が込められているのではないかとさえ思った。愛する喜び、愛されない悲しみ、拒絶の痛み、罪の意識、嫉妬、憎しみ、生きることの苦悩などなど、私の言葉では表しきれないが、そういう意味で、なんと豊かな作品だろうと思った。

それに、物語の作りや章の切り方など、心憎いほどだ。特に人が死ぬところなど、「死」という言葉をあからさまに出さなくても、いくらでも表現は可能なのだと知った。例えば、「トムは雄々しい男だった」。これだけで、トムという人間が死を選んだことがわかるなんて、いかにそれまでの文章が緻密に書かれているかがわかる。

もちろん、そのあとに葬式やら何やらの話があって、いかにぼんくらな人間でも、前後合わせて考えれば、トムが死んだことくらいはわかるのだが、余計な言葉を出さないというのが、どれだけ効果的か、改めて学んだ気がする。

この作品は名作だし、現代の他の作家の作品と比べるのもどうかと思うが、この前に 『The Secret Life of Bees』 を読み、これもたまた親の愛を感じたいという話であった。私は正直、それにはあまりはまれなかった。主人公リリィの悲しみがわからないなんて・・・みたいなことも言われたが、こりゃしょうがないやと思った。だって、作家が下手なんだもの。スタインベックの作品に比べたら、あれはファンタジーだと思った。といって、けしてファンタジーを馬鹿にしているわけではないが。

人間の犯す罪や感情に真摯に向き合う姿勢が、『The Secret Life of Bees』には足りないのだと思った。衝撃的な恐ろしい罪を抱えながら、夢のような世界に逃避している姿でしかない。自分の抱えている問題に、正面から向き合えない女の子の話だと思った。そのエピソード自体はかわいそうだと思える。けれども、同情では感動しない。

『エデンの東』にもこういう記述があった。


子供にとって最大の恐怖は、愛されないことでしょう。拒絶されることこそ、子供の恐れる地獄です。しかし、拒絶は、世界中の誰もが多かれ少なかれ経験することでもあります。拒絶は怒りを呼び、怒りは拒絶への報復としての犯罪を呼び、犯罪は罪悪感を生じさせます。これが人類不変の物語でしょう。もし拒絶を無くせば、人間はいまとは違う生き物になれるでしょうね。たぶん、頭が変になる人も少なくなるでしょうし、牢屋もきっとあまりいらなくなります。すべての出発点は、ここ、拒絶です。


子供だけでなく、大人でも拒絶されることには傷つく。絶望すらする。拒絶する側に罪の意識はなくても、誰しもが傷つくことであると思う。だが、上の文章にも、「拒絶は、世界中の誰もが多かれ少なかれ経験することでもあります」とある。「あなたはそんな経験をしたことがないでしょう」とはけして言えないのだ。誰しもが、その悲しみ、苦しみを知っているのだ。もっとも、拒絶する側も愉快な気持ちではないはずだ。

しかし、愛されていない悲しみもあるが、愛されていたのに気づかなかったという悲しみもある。愛していても、どう表現したらいいかよくわからないという苦悩もあるのだ。そういう様々な悲しみや苦しみを、スタインベックはあまさず表現している。そのたびに、自分がそれを経験していなくても、涙が出るのだ。

『The Secret Life of Bees』と共通している点がもうひとつある。キリスト教である。『The Secret Life of Bees』は、聖母マリアについての記述だが、『エデンの東』では、創世記のカインとアベルの話である。壮大なファミリー・サーガは、このカインとアベルの物語をテーマに書かれている。「拒絶」の問題も、神に拒絶されたカインから生じている。人類はすべて「カインの末裔」であるから、それは誰しもが抱える問題でもあるのだ。

だからこの物語は、ある部分では宗教的で、かつ哲学的でもある。それは『The Secret Life of Bees』でも同様で、その部分はもしかしたら日本人にはあまり馴染めない部分かもしれないが、非常に大事な部分だと思う。

さて、この『エデンの東』だが、ジェームス・ディーン主演の映画『エデンの東』のアロンとキャルの話は、原作のわずか4分の1である。物語は、アロンとキャルの両親であるアダムとキャシー、アダムの兄弟であるチャールズ、さらにその両親であるサイラス・トラスクとアリス・トラスクまで遡り、そこにトラスク家に深く関わるサミュエル・ハミルトンの一家の物語が重なる。また、トラスク家の召使として長年仕えるリーという中国人(生まれも育ちもアメリカだが)の人生も関わってくる。そして、サミュエル・ハミルトンの娘オリーブの息子が、ジョン・スタインベックなのである。これは、スタインベックが自ら語った、彼の周辺の物語なのだ。

2005年02月14日(Mon)▲ページの先頭へ
オリヴァー・トゥイスト(上・下)/チャールズ・ディケンズ

『オリヴァー・トゥイスト〈上〉』/チャールズ ディケンズ
文庫: 403 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480024999 ; 上 巻 (1990/12)

※画像は原書 『Oliver Twist』 (Penguin Popular Classics)/Charles Dickens


内容(「BOOK」データベースより)
18××年初、イギリスのとある町の救貧院で、一人の男の子が生まれ落ちた。母親は、子どもを産むとすぐ、ぼろ布団の中で息をひきとった。孤児オリヴァーはその後、葬儀屋サワベリーなどのもとを転々、残酷な仕打ちに会う。ついにロンドンに逃れたオリヴァーを待ちうけていたのは狂暴な盗賊団だった…。若いディケンズが、19世紀イギリス社会の暗部を痛烈に暴露、諷刺した長編小説。


『オリヴァー・トゥイスト〈下〉』/チャールズ ディケンズ
文庫: 390 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480025006 ; 下 巻 (1990/12)

内容(「BOOK」データベースより)
主人公の孤児オリヴァーの運命の星は、いっそう酷薄に、光を失ったままである。盗賊団の仲間ビル・サイクスに従って強盗に出かけた夜、オリヴァーは瀕死の重傷を負って仲間に置き捨てられる。かろうじて篤志なメイリー夫人に救われたオリヴァーの運命はしかし二転三転して…。『ピクウィック・クラブ』でユーモア作家として成功したディケンズが、ジャーナリト的立場をとって挑戦した初の社会小説。



<上巻>

ブッククラブの課題であるディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の上巻をやっと読み終えた。ううう〜ん、やっぱりディケンズだなあ・・・。読むのが面倒。日本語でも、読むのに手間取る。

それでも、『大いなる遺産』とか『二都物語』などに比べたら、まだ読みやすいほうなんだろうけど、しつこいほどの情景描写の書き込みが、ディケンズの特徴か。時代が時代だからと言ってしまえばそれまでなんだけど、彼独特のユーモアや風刺が、面白くない。いや、面白い部分もあるんだけど、時代に合わないというんだろうか。登場人物がみな馬鹿に思えてしまって、感想を何と言っていいのやら、だ。

もちろん、登場人物が馬鹿者に描かれているのは、ディケンズ独特の痛烈な風刺で、馬鹿に見えてもいいわけなんだけど、それにしても、イギリス人てこんなに馬鹿なの?って感じがしてしまう。オリヴァーは、これでもかというくらいにいじめられるし、それが、レモニー・スニケットの<不幸な出来事シリーズ>のように笑えるものではないのだ。何度も死にかけるほどの、本当のイジメなのだから、笑ってはいられない。

この本は分冊で出版され、好評を博したものなのだが、その出版形態を真似したのがスティーヴン・キングの『グリーン・マイル』。ディケンズも当時は大衆小説の作家だったわけで、同じくエンターテインメントのキングに通じるところはあるんだろうけど、だからといって、分冊にして儲けようというキングの主義は、賛成できない。それでも売れる公算があるからそうするんだろうし、キングほど売れている作家でなくてはできない形式ではある。

でも、ディケンズはほかに『デヴィッド・コパーフィールド』と『荒涼館』が残っている。どちらも4巻ずつ。ジョン・アーヴィングがディケンズファンなので、きっと面白いに違いないと思い込んで買い揃えたのだが、正直言って、個人的には好みではないなあ。そのうちどれか面白い作品に当たるだろうと期待しては、毎回こんなはずじゃなかったと思う。

アーヴィングもそうだが、詩的な描写を連ねるのではなく、きちんとした文体で、詳細に書き込む作家というのは好きなのだが、ディケンズはどうも合わない。『二都物語』の翻訳をした中野好夫さんでさえ、「昔はこんなのを教科書に使っていたんだから、ひどかった」なんてことを言っているくらいだから、これで英語の勉強をしようなんて、間違っても思わないほうがいい。もっとも、『オリヴァー・トゥイスト』は、『二都物語』よりも数倍面白いとは思うけど。


<下巻>

やっとディケンズの『オリバー・トゥイスト』を読み終え、ずっと悶々としていた気分がすっとした。ディケンズは、Dover とか Wordsworth といった安い出版社で原書を揃えてあるのだが、おそらく一生箱入りのままお蔵入りなんだろうな・・・と思ったら、クラっときた。

『オリヴァー・トゥイスト』そのものが面白くなかったわけでもないのだが、日本語でも面倒だなと感じた文体を、原書で読むなどという難儀なことができるかしら?と、ぐうたらな私は即座に思うわけである。書き込まれた文章というのは好きだけれども、ディケンズはどうにも面倒。

それでも、翻訳が絶版になっているものの場合は、どうしても読みたければ原書しかないわけで、『Pickwick Papers』なんかは、やっぱり読んでみたいと思うし、どうしてまだまだ捨てるわけにはいかない。翻訳の出ていないものもあるし、アーヴィングが心酔しているディケンズだから、何とかもう少し付き合おう。

とはいえ、ディケンズの作品は、どれもこれも翻訳が良くないのでは?という思いが捨てきれない。『オリヴァー・・・』も、けしてひどい翻訳というわけでもなく、時代とか作家の癖を考えれば、こういう風になるのだろうなとは思うものの、もう少し日本語がなんとかなっていたら・・・と思わずにはいられない。そういう意味でも、箱に入ったままの原書も、そのうち機会があれば、読むべきだろうとは思っている。

肝心の内容のほうだが、風刺小説なので人物の性格がかなり誇張されて書かれているとは思うのだが、「風刺」という前提があるにも関わらず、最後はすべての善人は幸せに、悪人は地に落ちるといった感じで、なにやらあっけない感じもする。生まれたときから虐げられていたオリヴァーが、最後まで苛め抜かれる世にも不幸な結末というわけではなかった。

そこまでしたら、ディケンズも「クリスマスのおじさん」とは呼ばれなかったことだろう。しかし、同時代の作家エリザベス・ギャスケルも、ワンマン編集長だったディケンズと喧嘩をしているくらいだし、人間的にはとても立派な人物というわけでもなかったようだ。ただ、自分も子どもの頃から悲惨な貧乏時代を送ってきたため、貧乏人に対する社会の冷酷さや理不尽さについては、一言も二言もあったに違いないと思う。そういう部分では、『オリヴァー・・・』は、そういった社会悪を鋭く描いているのだろうと思う。

ああ、そうだ!なぜディケンズが好きになれないのかな?と考えたところ、悲惨な話を、妙に喜劇じみた状況(いかにもイギリス的な喜劇)として描いているところが好きではないのだろうと思ったんだっけ。

『オリヴァー・・・』の場合、レモニー・スニケットの<不幸な出来事シリーズ>に設定が似ているとも言えるが(というか<不幸・・・>のほうが『オリヴァー・・・』に似ているのだろうけど)、イギリス的感覚と、アメリカ的感覚の違いか、はたまた作家の性格の違いか、その喜劇の感覚がディケンズのほうはどうもしっくりこないのだ。


2004年12月23日(Thu)▲ページの先頭へ
クリスマス・カロル/チャールズ・ディケンズ



カバーより
ケチで冷酷で人間嫌いのがりがり亡者スクルージ老人は、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マーレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊に伴われて知人の家を訪問する。炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人や、自分の将来の姿を見せられて、さすがのスクルージも心を入れかえた・・・。文豪が贈る愛と感動のクリスマス・プレゼント。


何度か読んでいるので、前にも感想を書いていたような気がしたが、みつからなかったということは、感想は一度も書いていなかったのだろうか。

子どもの頃に初めて読んだときには、幽霊が出てくるので、とても怖い話だと思っており、ディケンズというのは、怖い話を書く人なのだなどという先入観を持ってしまっていた。大人になって読み返してみると、なんだ、いい話だったんだ!という感じで、印象が全く違った。

しかし、何度か読んでいるうちに、スクルージが自分の死ぬ場面で、誰一人悲しんでくれないどころか、そばには誰もおらず、これ幸いと物を盗んでいくものや、生前の行いに言及して、これが当然の仕打ちであるとばかりに話すものなどを見て愕然とし、改心するというところは、やはり人間は、自分の死において、もっとも孤独を感じるのだなと思った。

誰だって、当然死ぬときは一人なのだし、どんな状況で死んでいっても、死んだら何も感じないわけだが、実際(例え夢でも)その場面を目の当たりにすると、どんな悪党でも改心するのだろう。

そこに至るまでに、幽霊のおかげで、氷のようなスクルージの心も徐々に溶け出していたのだろうとは思うが、結局は自分の死に目という、あとで悔やんでも悔やみきれない場面に遭遇し、因果応報のようなことを感じたに違いない。

この話は、常に優しい心を持って、周囲の人々には暖かい気持ちで接しましょうという教訓のようにも見える。また、それだけ感じればよいとも思えるのだが、今回読んでみて、どうもそれだけではないような気がした。自分の死に目があんなに孤独では何ともいたたまれないという、結局は人間のエゴを描いているようにも思える。

自分が死んだ時に、あんな目にあうのはひどく悲しいし、絶対にごめんだと思うからこそ、周囲に優しくしようと思えるのだろう。そして、死んでから、自分の罪の重さを償わなければならないという恐怖。それもまたエゴであると思う。

けれども普段の生活では、そんなことでさえもついつい忘れがちである。最終的に自分のためではあっても、人に優しくすることは良いことであるから、この本を毎年クリスマスに読んで、忘れている恐怖を取り戻し、再び心を入れ替えて、良い人になるよう努力しようと思えればいいのだと思う。

2004年12月07日(Tue)▲ページの先頭へ
冷血/トルーマン・カポーティ



カバーより
アメリカ中西部の片田舎の農村で、大農場主クラター家の4人が惨殺された。著者は、事件発生から、ペリー、ディックの2人の殺人者が絞首台の露と消えるまで、犯人の内面の襞深くわけ入り、特にペリーには異常なほどの感情移入をして、この犯罪の本質に鋭く迫っていく。細密な調査と収集した膨大なデータの整理に5年間の全生活を賭けて完成した衝撃のノンフィクション・ノベル。

●画像は原書 『In Cold Blood: A True Account of a Multiple Murder and Its Consequences (Vintage International)』


11月のブッククラブの課題本だったのだが、12月になってやっと読み終えた。文庫版で約550ページくらいの本で、厚いといえば厚いが、特別に分厚いというわけでもないのに、なぜか遅々として進まない本であった。進まない理由のひとつに、翻訳の日本語がどうもすんなり入ってこないというのがあった。昔の古い翻訳は、みなこんなものだとも思うのだが、内容は1950年代から60年代のもので、初訳は1967年だから、これもまた特別に古いというわけでもない。

現在では、惨殺事件はこれまた珍しくもないことだが(嘆かわしくも)、カポーティの時代には、かなりショッキングな事件であったのだろうと思う。しかし、カポーティがこの事件に興味を持ったのは、犯人のひとりであるペリー・スミスに、尋常ならざる好奇心をかき立てられたせいではないだろうか。本書の冒頭から、すでにカポーティのペリーへの思いは明らかである。

犯人のペリーとディックが、なぜクラター一家を惨殺したのかという理由は、二人が述べた理由以外には書かれていない。なぜ?という疑問は大いにあっただろうが、ノンフィクション・ノベルというからには、作者の推測はご法度だろう。それでも言外に、ペリーの精神的な鬱屈によるものではないかというカポーティの意見は読み取れる。

この本の感想を書くにあたって、事件の内容や、犯人について書くのは見当違いだろうと思う。それについては本書の中で、カポーティが事細かく描いているのだから、今さらここに書くまでもない。だから、なぜカポーティがこのような作品を書いたのか、この作品で何を言いたかったのかということを考えるほうがいいのだろうと思う。

これまで読んだカポーティの作品は、ほとんどが<イノセント・シリーズ>といわれるもので、そのシリーズは、個人的には大好きである。そのイメージがかなり強いために、他のイノセントでない作品が受け入れられなかったりもする。例えば、遺作である 『叶えられた祈り』 などは、こんなカポーティは読みたくない、知りたくないと思うほどだ。私にとってカポーティは、あまりにもイノセントなイメージが強すぎるのだ。

だが一方で、カポーティが根っからイノセントでないことも知っている。親の愛情に飢えたエキセントリックな人物であり、「早熟の天才」と言われているように、ある意味で狂気と紙一重のところにいたことも知っている。単なる個人的な好みとしては、そんなカポーティには目をつぶっていたいと思うのだが、この『冷血』で、目をつぶっておきたいはずのカポーティが、ペリーという殺人犯の姿となって、よりにもよってカポーティ自身の手で、あますところなく暴き出された感じがする。

そういった意味で、カポーティはこの作品で大きな冒険と賭けをしたのではないかと思える。ペリーという人物が、読んでいるうちにカポーティのイメージと重なり、カポーティはほとんど自虐的なまでに、自分自身を描いたかのようにも見える。おそらく、事件を知ったカポーティは、そこに自らの姿を見たような気がしていたことだろう。親の愛情を知らず、周囲にいじめられ、捻じ曲がっていったペリーの心に、自らの経験を重ねたことだろうと思う。

そう考えると、カポーティがこの事件を取り上げ、特にペリーに感情移入していったのは、なるほどもっともなことだと思えるのだ。作品を書くにあたって、幼馴染のハーパー・リーに調査を手伝ってもらったというのも、彼女以外にはできない仕事だったからではないだろうか。幼い頃のカポーティの状況を一番良く知っているのは、彼女だろうから。

2004年10月25日(Mon)▲ページの先頭へ
To Kill a Mockingbird/Harper Lee


出版社より
この美しい小説を、世のすべての親たちに捧げる。
舞台はアメリカ南部の古い町。母なきあとの父と兄妹の心にしみる愛情をヨコ糸に、婦女暴行の無実の罪をでっちあげられた黒人の若者をタテ糸に、見事に織りなした人生のメロドラマ。1961年度のピュリッツァ賞に輝き、11カ国に翻訳され、すでに数百万部を売りつくし、95週延々2年にわたって連続ベストセラーを続けた名作である。


主人公スカウトの目を通して描かれた、アラバマ州メイコーム(架空の町)の人々の暮らしや、人種差別の実態。父アティカスと兄ジェムとの絆の深さ。人間とは、家族とはどうあるべきなのか?といったことを考えさせられる。

エピソードごとに感動して胸がつまり、ページがぼやけてくる。素直なスカウトの心と、誠実で責任感の強い父アティカスの態度、大人になろうとする兄ジェムの頼もしさに、いつしか引き込まれ、一緒に泣いたり笑ったりするようになる。

最も大きな人種差別というテーマは、全編を通じて流れており、「相手の身になって考えること」という大事なことを教えてくれる。お化け屋敷の住人である、ブー・ラッドリーの視点に立った時のスカウトは、そのことを身をもって知る。何度読み返しても、新たな感動を呼び起こす、素晴らしい作品。

私はたまにしか「お薦めの本」というのは紹介しないのだが、これはそういった本の中のひとつ。何度読んでも感動。深くて濃い物語。
じっくり味わって読み、父アティカスの言葉を胸に刻み、ジェムやスカウトの成長とともに、人間のあるべき姿を考える。こういった「急いで読んではいけない本」が、たまにある。そういった本は、間違いなく名作だと思う。

人種差別の大きなテーマの中で、父アティカスの正義感と強さに、息子ジェムと娘スカウトが、尊敬の念を持って対応している姿に、現在では数少ない親子の信頼とか絆といったものを見ることができる。

子どもたちは、大人の人種差別の中で、何が正しいのか、何が間違っているのか、それぞれの視点で見ていく。「絶対に正しくない」こう言えるのは、何のしがらみもない子どもだからだという大人の諦めも見えて、世の中の理不尽さに身震いするほどだ。しかし、スカウトが謎の隣人ブー・ラッドリーの視点に立ったとき、彼女は世の中のことを悟り、人の立場に立って考えることの重要さを、私たちに教えてくれる。